モーラ鼻音と後続音節


 本研究は、モーラ鼻音(mora nasal)の生起状況について、特に後続音節の構造からその特徴を明らかにするものである。桑本 (2002) では、日本語のモーラ鼻音について、略語形成、口語表現などを例証し、モーラ鼻音を含むCVN型音節は、閉音節としては、日本語の中ではきわめて安定度が高いということを指摘した。本研究では、桑本 (2002) をさらに発展させ、隣接音節の構造にも注目し、また、日本語の他にアラビア語における類似した例を挙げながら、より一般性の高い指摘をめざす。
 桑本 (2002) では、略語形成において、「徹夜+マージャン→*徹マー/徹マン」のように、元の要素にない鼻音要素が現れて、長母音を含む音節より生起しやすいことや、「セブンスター→セスタ/ブンタ/*セブスタ」から、モーラ鼻音を含む音節 [buN] は、第1例のように全く現れないか、第2例のようにどの要素も損なわれることなく現れるかのいずれかとなり、第3例のように音節構造が崩れることはない。主にこのような例証から、モーラ鼻音を含む音節の安定性の高さを指摘した。
 本研究では、モーラ鼻音に後続する音節の構造に着目する。特にオンセットのない音節が後続する場合に焦点をあてる。たとえば、日本語において、特に口語で、普通よりはやい発話のなかで、「モーラ鼻音+オンセットなし音節」のつらなりで、モーラ鼻音が現れないことがよくある。
(1)	原因		geN.iN→gee.iN
	店員		teN.iN→tee.iN
	全員		zeN.iN→zee.iN
	満員		maN.iN→maa.iN
これらの例では、いずれも後続音節は [iN] である。後続音節がその他のモーラ鼻音付きの音節の場合は (1) のようにはならない傾向が強い。
(2)	嫌煙		keN.eN→*kee.eN
	減塩		geN.eN→*gee.eN
	翻案		hoN.aN→*hoo.aN
	半音		haN.oN→*haa.oN
	暗雲		aN.uN→*aa.uN
また、後続音節が二重母音、または単音を含むオンセットなし音節の場合もこのようなモーラ鼻音の省略は起こらない。
(3)	恋愛		reN.ai→*ree.ai
	親愛		shiN.ai→*shii.ai
	善悪		zeN.a.ku→*zee.a.ku
	雰囲気	fuN.i.ki→*fuu.i.ki
(1)〜(3) を検証するに、(2)および(3) の例は、桑本 (2002) の指摘を受け、モーラ鼻音の安定性を示す例といえるが、(1) の諸例の存在はむしろこの指摘に反するものである。このことは、この環境でのモーラ鼻音の不安定性を示すもので、ひいては、オンセットなし音節の不安定性を裏付ける証拠となりうる。
 オンセットなし音節の前でモーラ鼻音が不安定性を示すことは、アラビア語の類似の現象から確認することができる。アラビア語の前置詞 min-, 9an- などは、後続する定冠詞('al-)付きの名詞の前では、それぞれ mina-, 9ani- のように、母音挿入が観察される。(注1: アラビア語定冠詞 'al- のうち、音韻論的には ' も a もデフォルトに挿入される要素であり、本来的には l- であると考えていい。アラビア語ではオンセットは義務的であるから、本来的には l- であると思われる状態に a が先行し、さらにオンセット子音として ' が要求されるのである。だから、(4) の例で、単に ' が脱落したと考えてはいけない。注2: アラビア語表記のうち、" ' " は声門閉鎖音、"9" は咽頭有声摩擦音を表す)
(4)	min- 'al- madiinati	→	mi.nal.ma.dii.na.ti	町から
	from - the - town (genitive)

	9an- 'al- funduqi	→	9a.nil.fun.du.qi	ホテルから離れて
	off - the - hotel (genitive)
この場合は、モーラ鼻音が再音節化の結果、オンセットとなって現れたことになり、この環境でのモーラ鼻音の不安定性を指摘できる。
 さらに、日本語にある外来語で、「-イング(-ing)」の派生語尾を有するもののうち次の例は、モーラ鼻音が両音節的(ambisyllabic)になって、後続音節のオンセットとしても機能している。これもやはり「モーラ鼻音+オンセットなし音節」の連続を避けている例である。
(5)	ランニング		raN.niN.gu/*ra.niN.gu(running)
	カンニング		kaN.niN.gu/*ka.niN.gu(cunning)
	プランニング	pu.raN.niN.gu/*pu.ra.niN.gu(planning)
 以上より、モーラ鼻音は、長音や促音といった日本語における特殊拍要素の中では高い安定度を示す一方(田中 2002 も参照)、オンセットなし音節の前では、かなり不安定であることも同時に指摘できる。その表出のあり方は、消失、オンセットとしての再音節化、両音節的な要素としての再評価など、様々である。また、アラビア語におけるモーラ鼻音を有する前置詞での母音挿入も、この環境でのモーラ鼻音の意外なる不安定性を示す例と考えられる。さらに、フランス語、朝鮮語などでの、「モーラ鼻音+オンセットなし音節」がほとんど存在できないといった事実にも触れることで、日本語、アラビア語だけでなく、広く普遍性をもつ指摘に発展しうると考える。

参考文献
桑本裕二 (2002)
「日本語におけるモーラ的鼻音の特徴」
『東北大学言語学論集』第11号、93-104.
田中真一 (2002)
「日本語における短縮語形成とアクセント」
『日本言語学会第125回大会予稿集』50-55.

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