ことばにまつわるエトセトラ バックナンバー第1集
(第1回〜第5回)



第1回 「アムラー」たちの行方

 歌手の安室奈美恵が、昨年大晦日の紅白歌合戦への出演を最後に音楽活動を休止してもうすぐ1年になる。彼女がテレビのブラウン管から姿を消すのと前後して「アムラー」たちもどこかへ行ってしまった。
 この「アムラー」ということば、安室(アムロ)+アーと分析することができ、後部要素は英語の「〜する人」を表わす"-er/-or" から来ていることはほぼ間違いないところであろう。この英語の接尾辞は、「メーク〜メーカー」「キャッチ〜キャッチャー」など、なじみ深い外来語からよく知られているもので、この種の新しい造語にもこれがすんなり採用されたのもうなづける。ところが、「アムラー」ということばが世に出てきてからは「アムロ+アー」ではなく「アム+ラー」と分析されてしまった。これは、日本語が促音(っ)、撥音(ん)を除いてはすべて開音節であることとも関係がある。こうして「-ラー」が「〜のファッションをまねする人」の意味で独り歩きをはじめた。もちろんこれは英語の語源とは全く関係がない。「篠原ともえ>シノラー」というのは、本人が勝手に言い始めたにしては、その言い方は違和感なく受け入れられた。
 さて、安室奈美恵も篠原ともえも、それぞれ独自のスタンスでファッション界をリードし、若い女の子に影響を与えた。ということは、この「-ラー」という接辞は「女である」という属性をともなっているようだ。ビジュアル系バンドSHAZNAのリードボーカルIZAMからは、「イザマー」という言い方がある。彼は男性であるが、まねをする「イザマー」たちは女性である。また、以上からは、「ファッションのまねをする」という属性も無視できない。たとえば、スマップを好きな女の子たちには「-ラー」接辞はつかない。竹之内豊であっても、反町隆史であっても同じことである。
 さらに最近、特定のキャラクターグッズを愛好し、集めるのに熱中する人達にもこの「-ラー」接辞が使われる。「ミッフィー>ミフィラー」「キティーちゃん>キティラー」などが例であるが、「マイメロディー」「ドラえもん」「天童よしみ」などにはまだ「-ラー」接辞はつかない。
 これらの「ラー」接辞に対してはどうしても、批判的、皮肉的なニュアンスが感じられてならない。ある特定の芸能人のまねに徹し、あるいははやりのキャラクターグッズを集めるということに一種の画一的な無個性が感じられ、その上に立っての造語なのではないか。丸谷才一氏のエッセイ「ラの研究」(『青い雨傘』(文春文庫、1998年)所収)によると、「ゴジラ」「モスラ」「キングギドラ」など、怪獣の名前によく「-ラ」がつくが、これが、「ラ」に対する畏怖や恐怖感の現れだとする。一方、倉島長正著『正しい日本語101』(1998年、PHP文庫)では、丸谷氏の主張に対し、「-ラ」に一種の憎めなさや親しみを持たせることも無視できないとする(同書 p.199)。「アムラー」たちも、恐らくそのようなニュアンスで迎えられていたのではないかと推測する。
 それにしても一体、「アムラー」たちはどこへ行ってしまったのだろうか?(1998/11/13)

第2回 ヤクルトの語源

 今年のプロ野球も横浜ベイスターズの日本一で幕を閉じ、日米野球も全日程を終え、完全にシーズンオフに入った。さて、昨年までのセ・リーグを盛り上げ、来シーズンは阪神球団に移る野村克也監督の率いたヤクルト球団、この「ヤクルト」とはいったいどういう意味があるのか?
 ヤクルトファンの方なら十分ご存じのとおり、アルファベットの綴りは"Yakult"である。これは、球団のヤクルトのファンでなくとも、飲みものの「ヤクルト」の愛好者の方でも気付いているはずである。さて、この"Yakult"とはいったい何なのだろう?
 このような疑問を雑談として話すと、まず、大部分の人が「ヨーグルト」起源ではないかと言う。英語で「ヨーグルト」の綴りは"yog(h)urt"である。これは、ヤクルトの"yakult"とは/t/の前の音が/r/と/l/で一致しない。これは, "yog(h)urt" の起源とされるトルコ語の "jog^urt" に遡っても同じことで,さらに、関連のチュルク系の言語でも同じことである。
 ...と、ここまで考えて、ヤクルト本社のホームページ「ヤクルトの語源」にアクセスしたところ、エスペラント起源であることが判明した。やはり、大方の予想通り、「ヨーグルト」起源とのことである。ということで、くだんのエスペラントの辞典を調べると、「ヨーグルト」は"jahurt, jogurt"であった。依然、/r/〜/l/の問題が残る。上記のホームページでは台湾「養楽多 (ヤンロート)」、香港「益力多(イーリキト)」であると紹介されている。手元の辞典で調べたところ、養楽多=iangliokto(台湾のビンナン語)、益力多=yilituo(香港の広東語)となり、こちらは/l/が現れるが、これらの言語に/r/音がないことや、おそらく日本のヤクルト社がもとで、中国に進出したと思われるので,あまり意味はないと思われる.
 それではなぜ「ヤクルト(Yakult)」で/r/が/l/になったのだろうか?これに関しては、残念ながら、責任をもってものを言えない。ただ、もしかしたら、日本語に/l/音がないために、/r/よりも/l/の方がいかにも「外国語(西洋語)」っぽいニュアンスを与えるのでそうしたんじゃないかという推測はある。他の企業名・商品名にも「MAZDA」(松田自動車)、「SONY」(ソニー)などの例があり、欧米人に受け入れやすい綴りにすることや、いかにも「それっぽく」する努力が感じられる。
 企業名・商品名に関する謎に関しては、河原良朋氏のホームページ「なんだか気になることを調べるというコンテンツ」で、「ペヤングのなぞ」が紹介されている。こちらもぜひ参照されたい。(1998/11/16)

第3回 「亜ヒ酸中毒」を許していいのか?

 今年の夏に起こった、あの和歌山市のカレー毒物混入事件は、その後長きにわたって世間をゆるがし、現在もなお未解決のままである。おそらく、今年の重大事件として年末の各報道番組等で取り扱われることになるだろう。
 事件直後は、「青酸中毒」と断定されたが、その後の分析でヒ素の混入による、「亜ヒ酸中毒」と変更になった。ところで、この「ヒ素/亜ヒ酸」という言い方、実に気になる。
 「ヒ素」は明らかに日本語(漢語)であり、正確には「砒素」と書く。英語では"arsenic"、元素記号で"As"(元素番号33)であり、原語との関わりはおそらくない。かつて、「硫酸アンモニア」を音訳して略した「硫安」があったが、これとは明らかに違う。新聞、テレビ等で「ヒ素」を「砒素」と表記できない主な理由は、「砒」が常用漢字表からはずれていることであろう。
 常用漢字表の前身である、当用漢字表(昭和21年内閣訓令・告示)の制定を受け、学術奨励審議会学術用語分科審議会で、学術用語の作りかえが審議されたことがある(大久保忠利著『一億人の国語国字問題』三省堂、1978年)。その基準の一つとして、難解な漢字の使用を制限すること、また、一部をかな書きにするというものがある。例としては「楕円→だ円」「燐酸→リン酸」などがあり、「砒素→ヒ素」も、その基準に従った結果なのだろう。
 常用漢字表制定後も、漢字の使用制限については様々な意見が様々な分野で問題にされてきた。特に新聞紙上での漢語の取り扱いにおいて、漢字の使用制限の理由で、「ら致」「損失補てん」「脳腫よう」のような「漢字かなまじり漢語」とでも言うべきものが横行する結果となった。倉島長正著『正しい日本語101』(PHP文庫、1998年)では、最近は「拉致」としてルビを振るもの、「拉致(らち)」のようにカッコづけをするものなどを見かけるという。丸谷才一氏は、小学校の国語の教科書を引き合いに出し、「せつ明」「写しん」「二まい」などの表記を許容する「学年別漢字配当表」を廃止すべきだと述べる(『桜もさよならも日本語』新潮文庫、1989年)。「ら致」も「せつ明」も、結局は同じ漢字の使用制限から起こっている不自然さである。
 さて、ここ考えるべきは、「亜ヒ酸中毒」が許されうるか、ということである。私は「亜ひ酸中毒」とひらがな表記をすれば、「ら致」「損失補てん」などと同じくらいに不自然で受け入れ難いという直感をもつ。「亜ヒ酸中毒」が新聞紙上で許容されるのは「ヒ」がカタカナだからなのだろうか?確かに、カタカナで表記すれば、それが、なにやら化学的な薬品、化合物であるような直感は働く。逆に、「ラ致」「損失補テン」でははなはだ滑稽である。また、明らかに外来語起源の「サリチル酸」「エチル基」のようなものも存在するから、それらからの類推で、「亜ヒ酸」もあながち悪くないのかもしれない。
 ただ、やはり、漢字の中に「ヒ」というカタカナが混じるのはどうかと思う。いっそのこと、「砒素=arsenic」からの外来語借用にしてしまえばすっきりするだろうに、とすら思ってしまう。
 いずれにしろ、表音文字体系として、ひらがな、カタカナの2系統をもつ、日本語の強みであろう。読者諸氏は、「亜ヒ酸中毒」の許容性に関して、どのように感じられるだろうか?(1998/11/18)

第4回 「できちゃった結婚」の言語学

 去る11月13日、とんねるずの石橋貴明氏と女優の鈴木保奈美さんが入籍したとの報道があった。鈴木保奈美さんはすでに妊娠中であり、いわゆる「できちゃった結婚」であった。そう言えば、安室奈美恵&SAMの結婚騒動も、その「できちゃった結婚」だった。芸能界の最近の流行なのだろうか?
 で、その「できちゃった結婚」であるが、これを分析すると、「できちゃった+結婚」という複合語となる。普通の複合語は、名詞+名詞(例:風車)、動詞+動詞(例:切り返す)、あるいは、名詞+動詞(例:たこやき、ただし「たこやく」はない)なんてものもあるが、「できちゃった+結婚」の「できちゃった」の部分は、どう考えても「(子供が)できちゃった!」という、完結した文である。これは非常に特殊な造語法のような気がするのだが、このような複合語が、かつての日本語にどれだけ存在しただろうか?
 同じように、構成要素が文である、と思われる最近の言い回しを考えて見ると、「なんちゃって女子高生」というものが思い浮かぶ。「(女子高生)なんちゃって。実は...」というわけである。今は放送が終わってしまったが、フジテレビ系の番組『ねるとん紅鯨団』以降と思われるもので、「彼女(彼氏)イナイ歴〜年」が若年層で一般的に言われるようになったが、これもこの種の複合語の一種と考えていいだろう。古いところで、吉田茂内閣の「バカヤロー解散」というのがあったが、これは、国会の解散にかかわる象徴的な言動に基づく命名であるから、あまり関係はないと思う。「イテマエ打線」に関しても同様である。ちなみに、近鉄球団のこの打線は、今年は結局不発に終わった。総じて、こちらの複合語は、何だか、広告のコピーのようなニュアンスがつきまとうのである。
 そういえば、最近、「〜的」の乱用が耳にさわる。「わたし的にはあ〜」「映画を見に行く的なことで〜」また、ことわざを引き合いに出したような、「棚からぼた餅的な状況だった」なんて言い方さえ耳にする。上の「できちゃった結婚」式の造語法と、「〜+的」の最近の造語法とは似た向きがあるように思う。
 このような言い方は、来る21世紀に向けて、どんどん増えていくのであろうか?私自身、本来的な使い方ではないとわかっていながら、ついつい、「できちゃった結婚」「彼女イナイ歴」などは使ってしまう。これは、いわゆる「ことばのみだれ」ではない、と思いたいが、はたしてこれから先、生産的な造語法となっていくのであろうか?(1998/11/20, 1999/2/19 一部改稿)

第5回 中島みゆきの語彙論

 今回は、個人的趣味から、中島みゆきの歌詞から、その使用語彙について考えてみたい 。
 中島みゆきといえば、即、「失恋」とか、「暗い」とか思われがちであるが、深くその 歌を長年愛好している立場から言わせてもらえば、決してその限りではない味わいがある ということになる。例えば、『時代(1975年)』など、個人の失恋話ではさらさらなく、 とても23 才の女性が作詞したとは思えないような重厚な深みがあるように思う。いわゆ- る「中島みゆき」の世界を実感するには、その歌詞に使用されている語彙からある程度知 ることができるように思う。その歌詞に出てくる語彙は、決して飾りたてたものではなく 、どちらかといえば泥臭い、人間くさいニュアンスが感じられる。おおまかに分類したも のが次の通りである。
 彼女の歌詞に出てくる語彙は、決して成功している人達のそれではなく、ぎりぎりのと ころで生きている人間のありさまを如実に表現しているものである。さらに言えば、「雨 」「涙」「海」「魚」「港町」などから「水」のイメージが、また、「黄砂」「北向きの 風」「鳥」「船のデッキ」などから「風」のイメージが、「夜明け間際」「深夜のレスト ラン」「月明り」などから「夜」のイメージが鮮明に浮かび上がってくる。上の語彙を、 松任谷由実や、竹内まりやと比較すれば、さらに味わい深いものとなるだろう。(1998/11/29)

《参考文献》


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