ことばにまつわるエトセトラ バックナンバー第4集
(第16回〜第20回)
前回のコラムで、「ライスカレー」が「カレーライス」になったのはどうやら昭和30年を境にした頃らしいと述べた。今回は、「カレーライス」以降の洋食事情、また、命名された洋食の語構成について考える。
そもそも「ライスカレー」にしても「カレーライス」にしても、米の飯(ご飯)を指して「ライス」と言っていること自体、本来的には奇異で斬新であったと考えられる。もともと日本に存在していた米飯をあえて英語で「ライス」と呼ぶことには、これが洋食の位置づけであることを強調しようという意図が感じられる。今日でもたとえばトンカツ屋で、定食に茶碗に盛ってあれば「ご飯おかわり自由」であり、ファミリーレストランでは、定食のセットメニューの注文に対しては「パンになさいますか、ライスになさいますか?」とウェイトレスに確認される。ちなみにこの「ライス」の場合、洋食器の平皿に盛ってあり、フォークとナイフで食するようになっている。こうなれば、まさしく洋食としての位置づけがされていることになる。
さて、「ライスカレー」が「カレーライス」になった頃、おそらく同様の料理、
つまり、日本本来の主食である米飯に、洋風の汁物をかけたものが次々と世に出てきた。これらは「カレーライス」にならい「〜ライス」となった。たとえば「ハヤシライス」のように。同じような、米飯に何かをかけたり、のせたり、まぜたり、一緒に炒めたり、炊いたりする料理でも、どんぶりに入れば「〜丼」(カツ丼、天丼 …)、重箱に入れば「〜重」(かつ重、うな重 …)、和風だと「〜めし」(鯛めし、はらこめし)「〜ごはん」(やまかけごはん、栗ごはん)であって、やはり「〜ライス」には洋風というイメージがつきまとうこととなった。ちなみに、「チャーハン」「ピビンバ」も、実は「飯」である。
「オムライス」は「オム(レツ)(omelette)+ ライス」である。ケチャップで味付けしたチキンライスを卵焼きで包んだものである。これは本来野菜や挽肉の炒め物がはいっている中身の部分に味付けの「ライス」がはいっているという意味では「カレーライス」や「ハヤシライス」とは「〜ライス」の意味合いは少し違っている。ごはんの代わりに焼きそばが入っていれば「オムそば」というらしい。ここまでで考えられることとして、「オムライス」「オムそば」の「オム」は、まるで「卵焼きでなにかの具を包んだもの」という意味を持つ語(形態素)であるかのように思える。
さらに最近では、「オムライス」に通常かけるケチャップやドミグラスソースの代わりにカレーソースやハヤシライスのソースをかけたものを「オムカレー」「オムハヤシ」と呼ぶそうだが、これらの場合の「オム」は「オムライス」の略語である。
以上の「オム〜」をまとめると次のようになる。
- オムレツ
- 本来の語の一部(1)
- オムライス
- オムレツの略(2)
- オムカレー
- オムライスの略(3)
(1)→(3)に向かって語形成がどんどん複雑になっていっている。「オムカレー」
における「オム」は、既に派生的である「オムライス」の「オム」であって、「オ
ムレツ」の「オム」ではない。「オムライス」の「オム(レツ)」と「ライス」は本当はどちらも略しては意味をなさなくなるはずであるのに、この重要な要素の「ライス」を略すということを許してしまっている。しかも、「オムカレー」には実際に「ライス」が入っており、それが何のためらいもなく受け入れられ、「オムカレー」は食されるというのは、よく考えてみると驚きである。もし仮に、「オムライス」が世に存在しなかったとして、(1)から(3)にとんだとするならば、「オムカレー」はオムレツにカレーソースがかかったものだったはずである。
かつてはあこがれだった西洋料理が日本に普及し、そのための味や調理法、形状など様々な改良や改変がなされて多様性に富んだ洋食を現在楽しむことができる。そのたびごとに、名付け方にも様々な工夫がされてきているのである。(2006/3/2)
今年(2006年)のプロ野球日本一になった北海道日本ハムファイターズの優勝パレードが札幌市で行われているその日、私はそこにいた。すすきののとある焼鳥屋でふとテレビをみると、「世界バレー」を放映しているところだった。対戦は日本対プエルトリコ。この不思議な響きの地域の名に引き寄せられ、初冬の北国の都市にいながら、なぜか興味の矛先は中米へさらに南米といざなわれる。
「プエルトリコ」という地名はあまり日本ではなじみがない。世界のどの辺にあるのか見当もつかないというのが平均的な認識であろう。
プエルトリコはカリブ海にある島で、アメリカ合衆国の自由州となっている地域である。日本での認識は、上のように、たまたまテレビの中継で日本と対戦していたチームだったり、オリンピックの入場行進で見かけたかなにか、そのようなうろ覚えのなかに存在しているようだ。
このようないい加減な認識のなかで、「プエルトリコ」と聞くと、大概の人は「プエル - トリコ」のような二つの部分からなっているように感じるのではないだろうか?実際にはこの地名は、Puerto Rico (スペイン語で「豊かな港」の意)であり、この元々の語の構成からすれば、「プエルト - リコ」となるはずである。なぜ、日本人の感覚では「プエルト - リコ」のように感じられないのだろうか?
これには、日本語の特有のリズムが関連している。日本語のリズムとは、俳句や和歌の、5・7・5といった、五七調、七五調のことであり、この調子の基礎になっているのが脚(foot)という単位である。脚は日本語の場合拍(モーラ:たとえば俳句を指折り数える1つ分)2つで成り立ち、脚2つで最も安定した語の状態を保つ。これは、略語の多くが、「ファミレス」「コンビニ」など、2拍+2拍の構成になっていることからも明らかである。さらに、もう一つ、「音節」と脚の関係からすると、やはり2音節で一つの脚が形成されるという原則も別途存在することがいわれている。「プエルトリコ」を音節に分解すると「プエ - ル - ト - リ - コ」となる。これに基づいて脚を作ると、「[プエ.ル][ト.リ]コ」となる。この最初の脚 [プエ.ル] は、音節の長さ(重さ)からすると、[重軽] 型であるが、この脚の形は、少なくとも日本語においては、やはり非常に安定したものであると言われている。たとえば、「デモンストレーション」からの略語が、語頭から忠実に2音節をとった [デ.モン] でないのは、これが [軽重] 型であるからだ。この場合は、この不安定な形を避けて、 [デ.モ] が形成される。この [プエ.ル] という安定した脚が形成されるため、元々の語の境界「プエルト - リコ」が無視されるのである。「コスタリカ(Costa Rica:豊かな海岸)」は、[[コ.ス].タ].[リ.カ] のような脚形成がなされるので、こちらは元々の語境界が脚の境界と一致している。
さらに、(飲みの席での)話は、そういえば「エクアドル(Ecuador)」というのは、元のスペイン語では -dor の部分にアクセントがあって、英語の場合の E- とは違うのはなぜだろう、ということになった。これは、英語では長い語の最後にアクセントがあるのはあまりそれらしくないと感じられるため、英語の事情でアクセントが移動したのだろうか、などと議論は深まった。ただし、「ペルー(Peru)」は、スペイン語でも英語でも同じく語末の -ru にアクセントがある、など、一概に言えない条件が働いているようである。
もともと、-dor にアクセントがあるということから、さらに古形にさかのぼった場合、この dor が単独で1語を形成するという可能性が考えられる。そもそも、Ecuador は英語では equator(赤道)となる語でこれを表す部分を Ecua- とし、残りの部分は「国、土地」、を意味する元々の語であるとは考えられないだろうか、と思ったりもした。南米にあると信じられた「エルドラド(Eldorado:黄金の国)」のなかにある -dor- という部分はこれを思い出させるものであったが、スペイン語では dorado が金製品の意味なので、dorは「国・土地」という意味ではなく、「金」の意味であるらしいことがわかった。ちなみにスペイン語でも「赤道」は ecuador と全く同じ綴りである。-dor の部分は単なる接尾辞に過ぎないらしいので、この仮説はもろくも崩れ去った。(2006/11/29)
2006年の新語・流行語大賞も発表になり、年の瀬となった。新語・流行語大賞は、『現代用語の基礎知識』が候補語60語の中から選ぶもので、今年も12月1日に発表になっている。候補語の中には、「がっかりだよ!」(桜塚やっくん)、「チョット、チョットチョット」(ザ・たっち)のような、お笑いタレントが流行らせたものなどもあるが、私が、個人的に今年の流行語として挙げたいのは「欧米か!」である。これは、新語・流行語の候補語にすら挙がっていないが、お笑い漫才コンビ「タカアンドトシ」の定番の芸風である。ツッコミ担当のトシが連続で「○○か!」とつっこむパターンが定番のネタで、特にボケ担当のタカが、何の脈絡もなく欧米風の習慣や身振りを交えたり、話題を強引に欧米のものに結びつけたりするときにトシが「欧米か!」とつっこむものが人気となっている。
この漫才の台詞がおもしろいと感じられる背景には、一般の日本人が欧米文化に対して過度に憧れることが滑稽であるとする皮肉があると、私は感じている。とかくに、欧米の衣料品、革製品などに対するブランド志向や、海外旅行、海外留学などがファッション感覚であったりなどということが横行しているが、「欧米か!」と頭をはたきたくなるような気分にさせられることがある。
「国際化」とか、「国際感覚」、あるいは全部カタカナで「グローバルスタンダード」などという文言が、大学などで、おそらく企業などでも日々用いられ、なかばそのような感じの(なんだかよくわからない抽象的な)ことが強要されているように思える。真の国際化とはどのようなものなのか?上に述べたような、単に欧米の文物や習慣を日常にとりこむことではないはずだ。欧米で生活した経験のある人が、たまに日本に帰って「これだから日本人は」とか、「日本はこうだからいけない」のなんのとコメントするのも実に聞くに堪えない。自分たちも日本人であるのに。仕事上のことで同僚と何かの約束をしたとして、急に断られたりした時、「だって、サインしてないから」などと言われでもしたら、それこそ「欧米か!」と言いたくなるだろう。
この誤った「国際化」の認識には、まず、「国際的」=「欧米的(限定するとアメリカ的)」という思いこみがあるのだと思う。いわゆる「国際的」な視野をもつためには、視点を欧米にだけ向けるのではなく、常にその他の地域、アジア、アフリカ、そして特に近隣の韓国・中国などの諸国も念頭に置いていたいものだと思う。
言語に関してもそうだ。「国際的」というキーワードの背景に、「英語が堪能である」ということがついてまわっている感じだ。確かに英語の普及、流布は、現在のところワールドワイドであり、コミュニケーションの手段として最優先される言語であるのは事実である。しかし、所詮英語といえども、勘定のしようによっては4000から8000言語といわれている世界の言語のうちのたった一つであって、そのそれぞれを詳細に知らないまでも英語以外の言語の存在を背景知識として自覚していることは、英語なら英語を運用する際にも極めて重要なことであると思う。数年前の韓国ドラマブームの陰に、韓国語学習も同時に流行ったことなど、思い起こせば、そういったことに対する国際感覚も捨てたものではないと思う。また、国際化は、英語だけではない、といった主張は、たとえば、2008年の北京オリンピックに参加したり見に行ったりしようとする場合に、国際的な催しだからと英語学習に特に気合いを入れるということが、何となく的をはずれているように感じられるかと思う。
なんとなく盲目的に扱われている「国際化」ということに関して、ことばの面での「国際化」も忘れないでほしいと願う。
That's all. Thank you very much!
欧米か!(笑) (2006/12/6)
もう去年のことになってしまったが、映画『時をかける少女』(2010年,映画「時をかける少女」製作委員会,監督:谷口正晃)は、見どころ満載であった。この映画は、27年前に公開された同名の『時をかける少女』(1983年,角川春樹事務所,監督:大林宣彦)の続編という体裁をもち、主人公の少女は、27年前の主演(原田知世,役名:芳山和子)の娘(仲里依紗,役名:芳山あかり)という設定で、母親の青春時代である1974年にタイムスリップするラブストーリーである。原田知世版『時かけ』も劇場公開で観た者としては、製作年の隔たりを肌で感じ、両者の比較は実に興味深いものであった。
もう一つの見どころは、2010年に生きるあかりが、母親の青春時代、36年前に行き、様々なカルチャーショックを受ける中で、ことばの問題にぶつかることである。あかりの使う2010年の若者ことばは、1974年の涼太(中尾明慶演じる映画好きの青年)にはほとんど通じない。映画の中から主なものをあげると、以下のとおりとなる。
- ケータイ
- 「さすがに圏外かあ。」
- 「すごくない?」
- 「結構イケた?」
- 「SFオタクなんでしょ?」
- 「ってか、服着てください!」
- 「激カワコーデ」「激カワ」
- 「あっ! リアル『神田川』!」
- 「(それ)ウケる!」
- 「それって、あきらか、間に合わないよね。」
これらのうち、「ケータイ」「圏外」などは、当時なかった携帯電話というツールに関するものであり、ことばそのものとはあまり関係ない。
「オタク」「激カワ」「リアル〜」は、新しい名称、状態に対する表現である。36年の間に表現したい状態やジャンルが変化してきたことを感じさせる。これらのことばは、たとえばあかりが「オタク」「激カワ」と言った後に、涼太は不審そうに「何、それ?」と聞き返している(注:DVD版(アニブレックス)の日本語字幕では「劇カワ」と表記されている。「激しく」「カワイイ」から、「激カワ」の筈である)。こういった表現は1974年当時なかったものである。
その他の表現は、もともとそのことばはあったが、その意味表現としては使わなかったものである。「オタク」「激カワ」などに比べると、時代で変化したことに気づきにくい表現である。「すごくない?」は一昔前に「半疑問形」とよばれたあいまい表現の一つである。この表現(イントネーション)のニュアンスは30数年前にはわかりにくいものだったかもしれない。さらに、「イケる」「ウケる」もここ20年くらいに盛んに言い始めた表現であろうか。「イケメン」という言い方自体、以前はそんなにしなかったと思う。「ってか」や「あきらか」は「(〜)って(いう)か」「あきらか(に)」からの省略であるが、この種の略語表現も30年くらいの間に激しくなっていたといえそうだ。
当然のことながら、このようなことは、映画の脚色上誇張される向きもあるだろうが、36年の間の若者ことばの変化が如実に描かれており、映画自体の完成度の高さもさることながら、十分に言語観察が楽しめた作品であった。(2011/6/29)
「スマホ」ということばを初めて聞いたとき、SMAP の出演する新しいテレビ番組か何かの略したものかと思ってしまった。
「スマホ」は、当然ながらと言うか、「スマートフォン」の略語である。スマートフォンは、いわゆる普通の携帯電話に加えて様々な情報携帯端末機能を備えた携帯端末と定義される。携帯電話の普及が徐々にスマートフォンに移行しつつある昨今である。
ところで、「スマホ」が「スマートフォン」からの略語であるなら、「スマートフォン」で「スマフォ」になるはずであるのになぜか「フォ」が「ホ」になっていて「スマホ」である。この理由の一つとして、「フォ」という音(文字)が本来の日本語にないものだったため、「スマフォ」では言いにくいという感覚があるということがある。英語の “phone”は「テレフォン」のように「フォン」という言い方が普通である一方で「メガホン」のような言い方もあって、幾分「言いづらい」音なのかもしれない。
「ファ」「フィ」「フェ」「フォ」などは本来の日本語には文字の表記も音も存在しなかった。やがて外来語の表記法として、また、音声の模擬としてこのような表記と(だいたいの)発音の工夫がなされた。そして、だいたい現在のこれらの文字表記に合った発音がなされるようになってきたようだが、少し年齢の上の世代では、「巨人ファン」を「巨人フアン」、「フィルム」を「フイルム」と言ってしまっている。若い世代でもこのような言い方を時々やらかす。要するに、「言いにくい」音なのである。
「フォ」はどうだろうか? 「フォークダンス」「フォロー」などが言いにくくて「ホークダンス」「フオクダンス」、「ホロー」「フオロー」などと言うことはまずない。ということは、「ファ」や「フィ」に比べると「フォ」はずっと「言いやすい」音である。そのせいで、「スマートホン」や、おそらくその形からの略語「スマホ」はどこか耳障りである。
もう一つの違和感は、略語の形である。複合語からの略語は、「ファミレス」←「ファミリー」+「レストラン」のように、2拍+2拍(拍はモーラというが、日本語の場合、小さく書くものは除いてほぼ仮名1文字分に相当)で成り立つのが普通で、これは日本語の、心地よいと感じられるリズムと関係がある。これに従えば、「スマートフォ(ホ)ン」からの略語は「スマホン」「スマフォン」などの方がリズムに従っていることになる。それなのに、現実は「スマホ」である。これは、本来の日本語のリズムにしたがっていない。こういう全体で3拍の略語は、最近(ここ15年くらいか)の間にどんどん増えて来ている。「ラブホ」←「ラブホテル」、「ノミホ」←「飲みほうだい」などである「スマホ」もその流れの一部で、日本語の古式ゆかしいリズムを破壊しているように感じられる。(2011/7/6)
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