ことばにまつわるエトセトラ バックナンバー第3集
(第11回〜第15回)



第11回 「大地震」は「だいじしん」ではなく「おおじしん」なのか?

 今年は8月以来、トルコ大地震、台湾大地震など、悲惨な災害が相次いだ。
 ところで、「大地震」は、「おおじしん」と読むのか?「だいじしん」と読むのか?
 上記報道において、たとえばNHKのアナウンサーが、「トルコダイ、、オオ地震で、、、」と直して言っていたので、おそらくNHKの規範では「オオジシン」としなければならなかったのだろう。そもそも、「地震」はどちらも音読みなので、漢語であるが、それならば、それに冠せられる接頭辞も音読みの「だい」であるはずである。それでは、なぜ「おおじしん」なのか?
 漢語だけに焦点をあてても、火事→大火事(おお)、災害→大災害(だい)、事件→大事件(だい)など、統一性がない。その一方で、「大それた(だい)」といった、和語に付く音読みの「だい」が許されたりする。
 「だい-」と「おお-」。どちらがより生産的な接頭辞となるのであろうか?(1999/11/11)

第12回 「ストーハ」と「キスミー」

 ここ1、2年、2、30年前の映画もしくはテレビドラマのリメークの帯ドラマが非常 に多くなっている。『白い巨塔』『砂の器』など、前回の放映、放送時にかなりの話題に なったものを、改めて別の配役、時代設定で見直し、比較するのは非常に興味深いものだ が、表題の2つのことばは、7月から始まった『人間の証明』(フジ系、木曜10:00-)で の、謎を解く鍵となるものである。
 オリジナルの映画は、1977年、角川春樹製作、森村誠一原作、松村善三脚本によるもの で、当時勢いのあった「角川映画」であったことや、主演の松田優作のカリスマ性にも脚 色され、印象に残るものだった。新旧の作品を通して、「ストーハ」と「キスミー」とい う2つのことばが謎解きのキーワードとなる。
 物語のごく初期に、「ストーハ」が「ストローハット(麦わら帽子)」、「キスミー」 が「霧積(きりづみ・地名)」であることを、松田優作演じる刑事(新作では竹野内豊) がつきとめてしまう。(新作では「ストーハ」について第2回放送で、「キスミー」につ いては第3回放送で明らかになる)劇中では、これらの当初理解不明の発音は、被害者の 黒人の独特のなまり方であったと説明されている。
 これについてさらに詳しく観察すると、"st(r)aw ha(t)"、"Ki(r)izumi" のように、/r / が弱く発音される、または発音されないということが共通事項として挙げられる。ここ では、なぜ /r/ 音が弱くなり、発音されないということが起こるのかを考えてみたい。 そもそも、英語の /r/ 音は、日本語の「ラ行」音と違い、接近音という、母音に限りな く近い子音である。「母音に限りなく近い」というのは、つまり、/p/や/t/などのような 肺からの呼気が完全に止められる音に対し、肺から出される呼気がほとんど阻害を受けな い、ということである。/p/ や /t/ に比べると、英語の/r/ や鼻音の/m,n/ などは呼気 の阻害が少なく、半母音の /w,y/ はさらに少なく、母音が最も呼気の阻害が少ない音で ある。英語の /r/ はこの基準からみると、かなり母音に近い音であるといえ、だから、 この場合の黒人なまりは、周りの母音に同化したように聞こえて、/r/音が消えたとみな されたのだろう。
 とかくに、日本人は英語の /l/ と /r/ の発音の区別がへただ、などと言われるが、実 は、明確に区別している筈だと思われる例がある。外来語として日本語に取り入れられた 英語の/-l/、/-r/ で終わる語を比較すると、/-l/ の場合、"tall" →「トー」 、"small"→「スモー」、"national"→「ナショナ」のように /ru/ という子音付きの音節でうつすのに対し、/-r/ の場合は、"star"→「スター」、"computer" →「コンピューター」、"player"→「プレーヤー」のように長い母音の一部として表 す。これは、厳密にいえば語末の /r/ は、アメリカ英語の場合、ほぼ母音化しているの で、そのせいもあるが、明らかに /-l/ の場合とは区別されており、ここでの外来語の/l /と/r/の現れ方の違いは、/r/音が母音として発音されやすいという『人間の証明』の謎 解きとも関連していると考えられる。つまり、英語の/r/音の阻害の弱さ(専門的には「 きこえ」という)が関係している。
 そういえば、『砂の器』でも、被害者の言った「カメダ」という地名らしきことばの音 をめぐって謎が深まり、やがて謎が解かれた。(2004/7/26)

第13回 問題「な」言い方?

 当コラムで、以前に「できちゃった結婚」という言い方についての語形成の特徴について論じたことがあった。今回は「-な」という、最近耳にする(目にする)言い回しについて考える。
 ウェブページの検索で「大人な」だけ検索しても「goo」で約110000件ヒットした。例えば「大人な味」「大人な印象」「大人なライブ」など。ほかに、「わかばな人々」(NHK連続テレビ小説『わかば』の登場人物を紹介するページ)、「アジアな女たち」、「ショートな飯田圭織」など。また、書籍では『問題な日本語』(北原保雄著、大修館書店)を最近書店で見かける。この本はまさしくそのような言い方に言及したものである。
 本来、この「-な」という語形は、連体修飾語となるとき、「大きな」「小さな」などの連体詞の一部、または「静かな」「穏やかな」など形容動詞「-だ」の連体形の活用語尾の場合しか許されない。だから、上の「大人な」という、「名詞+な」という使い方は、普通の見方からすれば明らかに誤用であるが、上のようなウェブページのタイトルや、その他商品のキャッチコピーや雑誌の見出しなどでよく「目に」する。
 連体詞「大きな」「小さな」から「な」を除くと、「大き」「小さ」となり、明らかに意味をなさない。形容動詞連体形の「静かな」などの場合は、「静か」「穏やか」のように、とりあえず言い切りの形で存在できる。ところで、形容動詞には、「静かだ」「穏やかだ」などの他に、「積極的だ」「論理的だ」「意外だ」などのように、語幹が、漢語やそれに「的」がついた、すべて漢字語で成り立っているものがある。形容動詞の語幹は当然それだけでは名詞と見なせないが、漢字語であると、「-が、-は、-を、-に」などが簡単に付きそうになる。(実際には「積極的は」「意外を」などとは言えない。)一方、「名詞+だ」(「だ」はこの場合は助動詞)という語形は可能である。「私は学生だ」「それは嘘だ」などの「学生」「嘘」などは歴とした名詞である。こうなると、「漢字語+だ」が、「形容動詞語幹+形容動詞活用語尾「だ」(1)」なのか「名詞+助動詞「だ」(2)」なのか区別がつきにくくなる。(1)の場合は連体修飾をさせるときは形容動詞連体形を用い、「-な」となる。(2)の場合は「名詞+の」としなければならない。(2)の状況なのに(1)に倣って「-な」としたのが、ここで扱っている最近の用法なのであろう。
 もともと微妙なものもあって、例えば、「幸福だ」「清潔だ」などは形容動詞とされているが、「幸福な/幸福の」「清潔な/清潔の」はどちらも可能であって、つまり、「幸福」「清潔」はまともな名詞である。ところが、「本当だ」は、普通、「本当の」と言い、「本当な」は一瞬どうかと考えるものの、やはり誤用であるから、「本当だ」という形容動詞はないということになる。
 「幸福だ」のように形容動詞と名詞が共存できるものがあったり、「本当だ」のように一瞬形容動詞のようにみえるものがあったりするのは、以下の理由が考えられる。品詞を、名詞などの体言と、動詞などの用言に分類した場合、体言はものの名前を表すのが本来的で、用言がものの動作や状態などを表すものだとされる。ところが、名詞の中には様子や状態を表すものも多く存在するので、このような名詞で、しかも漢語のものなどに「だ」が付く文脈で連体修飾する場合に「名詞+な」が出現したのだろう。
 派生的に「オーバーな」「ロマンチックな」などの外来語に「-な」が付くのはことの成り行きとして納得がいくようにも思える。また、これらが形容動詞として定着して行くようなこともなんとか推測できる。しかし、ここで問題にしている「大人な」「アジアな」などは明らかに名詞、あるいは番組のタイトルや人物名などの固有名詞であって、本来は状態を表すものではない。しかし、それであるからこそ、一見何の特徴も表さないような「ものの名前」などに特徴めいた性質を見いだしたり、流行やかっこよさを追求したりしてこのような変わった言い回しが好んで用いられるようになったのではないだろうか?
 今のところは、ウェブページや雑誌の見出しなど、書かれた媒体でしかほとんどふれあわない。だから、「最近耳にする」というよりは「目にする」と書いたのである。これからも多用されるうちに、話し言葉でも積極的に使われるようになるのかもしれない。(2005/3/22)

第14回 いっこく堂のP音、B音、M音

 腹話術を巧みに使いこなし、さらに何種類かの声色を使い分けて数種類の人形を使ってのパフォーマンスを行うエンターテナー、いっこく堂。テレビへの出演などにより世間が注目するようになってからもう6,7年になる。特技の腹話術を駆使し、数種類の声色を使い分けたり、口の動きに音声を時間的に遅らせる「衛星中継」など、観る者を飽きさせない、新しい手法で腹話術を楽しませてくれる。いっこく堂の腹話術の技術において最も画期的であると思われるのは、P音、B音、M音の発声を可能にしたことである。
 一般的に腹話術の発声で、P音、B音、M音は無理だとされているらしく、どのマニュアル本をみても「無理だ」と書いてあるという。P音、B音、M音とは、日本語では、「パ、ピ、プ、ペ、ポ」のパ行音、「バ、ビ、ブ、ベ、ボ」のバ行音、「マ、ミ、ム、メ、モ」のマ行音ということになる。これらの音は全て上下の唇をくっつけることで発音される「両唇音」とよばれる音である。腹話術は、唇を動かさないで、または、前から見ると唇を閉じたように見せかけて音声を発する発声法であるので、P音、B音、M音などの両唇音は物理的に発声できないのである。だから、今までの、または現代の他の腹話術師は、おそらくこれらの音を発声するときだけ微妙に唇をくっつけているか、または、F音やN音などの似た音で代用しているのであろう。では、いっこく堂は一体どのようにこれらの音を発声しているのだろうか?
 以前にテレビの放送でいっこく堂のパフォーマンスを観たことがあるが、確かにP音、B音、M音をはっきりと発音していた。しかも、彼は、これらの音を自分が発声できるということを強調して、ゆっくりとこれらの音を発音するパフォーマンスもしていたので間違いなくそう聞き取れた。しかも、唇は動いていなかった。少なくとも動いているようには見えなかった。
 おそらく、P音、B音、M音の腹話術での発声法は、いっこく堂にとっては手品の種明かしをするようなものだろうから、明らかにされることはないだろう。ただし、音声学的(?)に考察すれば、いくつかの可能性が考えられる。問題の両唇音は上下の唇をくっつけて口腔内に閉鎖を作り、呼気を急激に出すことで発声される音である。要するにこの「閉鎖」を唇以外の口腔器官で代わりに作ればいいわけである。唇のように柔らかく、自由に動かしたりくっつけたりできるものといえば、舌しかない。舌を上あごにくっつけると簡単に閉鎖を作ることができるが、たとえば、舌先を歯茎の付け根にくっつけるとT音、D音、N音など、既存の音が発声されてしまう。舌の形状からして真横の頬の内側にはぴったりくっつけて閉鎖を作ることができない。となれば、下あごしか舌をくっつける場所は残されていない。だから、舌先を下あごのどこか、たとえば舌の歯茎の付け根などにくっつけて閉鎖を作り、そこから呼気を出して両唇音らしき音を発声するのではないかというのが想像の一つである。もちろん具体的に舌をどのように動かすとそのような位置に持って行くことができるのか想像もできないし、仮にそうできるとしても、かなり無理のある口腔の動作を必要とするはずである。現にいっこく堂は、P音、B音、M音を腹話術で出す練習をかなり長い時間をかけて練習したということだが、その間に歯のかみ合わせがおかしくなったという談話があった。この話からするに、随分と不自然なあごの使い方があるようで、上の予想はそれほどかけ離れたものではないのかも知れない。
 いずれにしても、一芸に秀でるというのは並の努力や発想ではとても無理だということである。(2005/11/7)

第15回 「カレーライス」か「ライスカレー」か?

 あのおなじみの定番メニュー、子供から大人まで大人気の「カレーライス」であるが、少し年配の世代で「ライスカレー」と言われることがある。いったいいつ頃「ライス」と「カレー」が逆転したのか?また、そもそも「カレーライス」と「ライスカレー」に定義上の違いなどあるのか?
 私の経験から推測すると、今は出会うことも少なくなった明治生まれの人たちは「ライスカレー」と言っていた。私は子供時代、「カレーライス」といって食卓に出されたから、私の親の世代(昭和10年代生まれ)では「カレーライス」が一般的であるようだ。しかし、昭和20年代生まれの知人のなかに何人も「ライスカレー」派がいた。私のつきあいのある人たちの中で、昭和30年以降に生まれた人の中には「ライスカレー」派はいない。私の乱暴な憶測の範囲内では、「ライスカレー」は昭和20年代生まれの世代までで絶滅する。
 カレー(ライスカレー)が日本に普及したのは明治時代、海軍からだという(Wikipedia「日本のカレーライス」)。文献には夏目漱石の『三四郎』(明治41年)に次のようなくだりがある。

…昼飯を食いに下宿へ帰ろうと思ったら、昨日ポンチ画をかいた男が来て、おいおいといいながら、本郷の通りの淀見軒という所に引っ張って行って、ライスカレーを食わした。

「僕はいつか、あの人に淀見軒でライスカレーを御馳走になった。まるで知らないのに、突然来て、君淀見軒へ行こうって、とうとう引っ張って行って…」
 学生はハハハと笑った。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーを御馳走になったものは自分ばかりでないんだと悟った。

『三四郎』の時代には、友達におごることが自慢できるだけの価値があったということである。
 「カレーライス」と「ライスカレー」の違いについては、上記 Wikipediaでは次のように書かれている。

ライスカレーと呼ばれることもあるが、一説にはカレーライスが curried rice であるのに対してライスカレーは rice and curry、つまり皿に盛った御飯とは別にカレーソースがソースボートで供されるもののみを指す、とも言われる。

これとは全く逆に、向田邦子「昔カレー」(『父の詫び状』(昭和53年))では次のように語られている。

 カレーライスライスカレーの区別は何だろう。
カレーとライスが別の容器で出てくるのがカレーライス。ごはんの上にかけてあるのがライスカレーだという説があるが、私は違う。
 金を払って、おもてで食べるのがカレーライス
 自分の家で食べるのがライスカレーである。厳密にいえば、こどもの日に食べた、母の作ったうどん粉のいっぱい入ったのが、ライスカレーなのだ。

 カレーを別の容器に入れることに高級感を持たせて名前が付けられているのだとしたら、向田邦子氏(昭和4〜昭和56)の幼少時代には「カレーライス」が、ウェブページで紹介されている現在の世の中では「ライスカレー」ということになる。一般的にあの食べ物を指す語が「ライスカレー」→「カレーライス」と変化したことを考えるなら、「ライスカレー」が普通の時代には「カレーライス」が新しい言い方であって、それに高級感を持たせたと考えられる。昨今では、普通になった「カレーライス」に対し、レトロで「いき」な言い方として、かつての「ライスカレー」を求めたと言えそうだ。
 少し前になるが、フジテレビ系で『ライスカレー』という連続ドラマがあった(1986年)。当然このタイトルの中に一種のノスタルジアを感じさせていたはずである。(2006/2/28)


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